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  寺と神社
回天神社 かいてんじんじゃ  茨城県水戸市松本町13-33    主祭神 水戸勤王殉難志士 1,785名。  創建 1969年。安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変以後、国のために殉した1,785名の志士の霊を慰める。



水戸殉難志士の墓  1864年、尊皇攘夷をめぐり「天狗党の変」が起った。幕府軍に降伏した水戸藩榊原新左衛門等1000余の志士は、茨城古河、千葉館山等十数カ所の獄舎、寺院に幽閉された。降伏から救出開放される4年間に斬死、幽死、獄死した志士の数は、400人とも500人ともいわれる。1869年、初代水戸藩知事徳川昭武は、これらの志士の遺骸を収容、常磐共有墓地の一角(現回天神社境内)に埋葬した。1914年、「天狗党の変」より50年を期して慰霊祭がおこなわれた。殉難志士の氏名、年齢、死因、殉難地を調査した結果、371名について判明した。その氏名を刻して墓を建てた。墓列の総延長は370mとなった。(説明板より)

回天館  1864年、尊王攘夷をとなえ、筑波山に挙兵した藤田小四郎等の天狗党。幕府討伐軍や水戸の佐幕派と各地で激戦を展開した。藤田小四郎達は、武田耕雲斎を総大将とし、京都に滞在してた一橋慶喜を通し朝廷に歎訴のため、常陸大子に結集。京都へ向けて出発した。総勢1000余名の志士達は、下野、上野、信濃などにおいて、諸藩兵と戦う。厳寒の中を飛騨から越前へと深い厳しい雪道の難行軍が続いた。越前国に到着したとき、頼みとする慶喜が、一行に対する討伐を命じたとの報を得る。軍議の結果加賀藩に降伏した。志士達823名は越前敦賀の三寺院に分散収容され、加賀藩の永原甚七郎らの手厚い保護を受けた。1865年、幕府討伐軍田沼玄蕃頭意尊により、敦賀の16棟の鰊倉に押し込められた。その後、総大将の武田耕雲斎や藤田小四郎達353名は、鰊倉から引き出され、斬首された。斬首を免れたその他の志士は流罪・追放などの刑を受けた。1957年、天狗党の血涙がしみ込んだ16棟の鰊倉のうちの1棟が、敦賀市より水戸市に寄贈された。常磐神社の境内に移築復元されて「回天館」と名付けられた。その後、志士達を祀る回天神社の境内に移築された。「回天」とは混乱、衰微した時勢や国勢を正しい状態に盛り返すことを意味する。(説明板より)



水戸光圀によって創設された、水戸藩士のための共同墓地。常磐共有墓地。 格さんの墓

藤田東湖の墓


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