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  寺と神社
天寧寺 てんねいじ  2009/10/15  福島県会津若松市東山町大字石山天寧208   曹洞宗。山号は萬松山。 1447年、蘆名盛信が開いた。最盛期は1,000名以上の僧、末寺33、僧堂12があった。蘆名氏の菩提寺だった。会津武家屋敷より歩く。10分くらい。天寧寺の入口。

熊野神社の鳥居もある。

階段をのぼる。











会津士魂の碑

萱野権兵衛(かやのごんべえ)・郡長政(こおりながまさ)の墓。会津萱野家の始祖は萱野権兵衛長則。加藤嘉明の上級家臣として、国替えにより会津に移る。長則は天寧寺に葬られる。天寧寺が萱野家の菩提寺となる。9代権兵衛長修とその嫡男長正は有名。長修は、戊辰戦争の全責任を一身に負い藩候と全藩士に代わり切腹。享年42歳。知行1500石の家老だった。郡長正は、戊辰戦争後、会津の教学復興のため、福岡県の小笠原藩藩校育徳館に留学。ある事情により会津武士道を汚したとして自刃して果てた。時に齢16才だった。(碑石より)観音様の左隣にあるのが郡長正の墓。

萱野家と郡家の墓。  山に少し入りかけたところにある。坂が急なところがある。どんぐりの実が歩くところ一面に落ちていて、歩くのが大変だった。何か出てきても不思議でない雰囲気がある。

近藤勇の墓に行くための道路

郡長正之墓200M  萱野権兵衛之墓250M   郡長正之墓と萱野権兵衛之墓は別なところにある?  萱野権兵衛之墓はどこにあるのか? わからなくなった。

新選組局長、近藤勇藤原昌宣之墓。15歳にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめる。師近藤周助の養子となる。元服して名を勇と改め、剣理を極め、試衛館を継ぐ。塾頭に沖田総司、土方歳三他。新撰組の母体となる。新撰組最盛期は、池田屋騒動のころ。新撰組は鳥羽伏見の戦いに、伏見警備につくも新式火器の前に敗走。土佐藩、谷千城により斬首の刑となる。遺体は、東京三鷹市の龍源寺に埋葬された。首は、京都三条大橋下流にさらされ、その後この地に埋葬された。会津松平の地に、副長土方歳三の手により建墓された首塚と語り伝えられる。(説明板より)

左 近藤勇の墓 貫天院殿純忠誠義大居士  右 土方歳三の慰霊碑 歳進院殿誠山義豊大居士

近藤勇 辞世

孤軍援絶作俘囚  顧念君恩涙更流  一片丹衷能殉節  雎陽千古是吾儔  靡他今日復何言  取義捨生吾所尊 快受電光三尺剣   只将一死報君恩  
孤軍たすけ絶えて俘囚となる。顧みて君恩を思えば涙さらに流る 。一片の丹衷よく節に殉ず。雎陽(すいよう)千古これ吾がともがしら。他にな びき今日また何をか言わん。義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所。快 く受けん電光三尺の剣。只まさに一死をもって君恩に報いん。
孤立し、援軍が絶え、囚われの身となった。君主の恩を思いば、涙がさらに流れる。真心からの忠誠心、義のために命を捨てることができる。雎陽は、千古にわたっての永遠の同志である。敵方に、今更何も言うことは無い。義のために、生命をなげることは、望むところだ。 剣を快く受けよう。ひとつの死により、君主の恩に報いたい。
・・・壮絶な詩である・・・。

  寺と神社